稲川通信39】雌伏の時代

 JR長岡駅の東口から、しばらく北へ歩くと、日本互尊社の(もり)に行き着く。千六百余坪の森の中に、木造の社屋と、長岡空襲に遭った長岡市の中では一番古い鉄筋コンクリート造りの如是蔵博物館がある。日本互尊社は、実業家であり互尊思想を提唱した野本恭八郎(号・互尊翁)が創設した財産法人である。その発足前後の昭和十一年(一九三六)に互尊翁が歿したので、その後の運営は市民の有志によって支えられている。
 如是蔵は、仏教でいう知恵の蔵という意味であるから、野本恭八郎は、あらゆる文化財や人間の歴史に関する物品を集めようとした。とりわけ、野本は長岡の人物誌にこだわっていたから、二階は山本五十六(いそろく)元帥の遺品コーナーとなっている。

 野本恭八郎は嘉永五年(一八五二)生まれであるが、直接、河井継之助と面識はなかった。生れは幕府領の小国郷の出身である。その野本が長岡城下の渡里町の野本家に養子できたのは明治五年(一八七二)、二十一歳のときである。野本は生涯にわたって河井継之助を敬愛したという。その如是蔵博物館三階展示コーナーに、二幅の河井継之助の書が展示してある。いずれも王陽明の詩である。

険夷もと胸中に滞らず 何ぞ異らん浮雲の大空を過ぐるに 夜は静かなり海濤三万里 月明錫を飛ばして天風に下る

渓石何ぞ落々たる 渓水何ぞ冷々たる 石に坐して渓水を弄び 欣然として我が(えい)を濯う
渓水清くして 底見われ 我が白髪の生いたるを照す 年華は流水のごとく 一たび去って回停するなし 悠々たり百年の内 吾が道終に何をか成さん

 この二幅の詩は王陽明が三十六歳と三十七歳のときのもので、流謫(るたく)の地の新境地の開眼を示すものである。この詩を好んで書いた継之助の心をあらわすものとして必見の書である。

(稲川明雄)

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2018年11月29日 | カテゴリー : 稲川通信 | 投稿者 : kawai03

【稲川通信38】評定役随役に抜擢される

 長岡藩の評定役は、藩政全般を協議する。その構成員は家老・中老・奉行、それに民政をあずかる宗門・町・群奉行が加わる。随役とは、その(はやく)に特別に関わることをいう。長岡藩では重要な役目だ。  それに継之助は任命されて帰国した。国元では当惑した。まだ部屋住みの青二才が評定所に出勤してきて、発言を要求したのである。家老・大目付とも驚愕(きょうがく)した。
「その言ふ所、高尚に過ぎ、時勢にそばず(中略)人望に乏しく、(かえっ)て人心を傷うの憂ひあり」という。たぶん、堂々と自らの改革案を提示し、江戸の情勢を説明したのだろう。  家老の山本勘右衛門、大目付の三間安右衛門らは早速、江戸へ飛脚を立て、藩主の牧野忠雅(ただまさ)にうかがいをたてる一方、「斯る場合は藩主より、一応国家老に相談あるべき慣例だ」と主張し、河井継之助が登庁するのを拒んだという。しかし、継之助は意に介さず出勤したが、忠雅の返答が「継之助の性格はやはり駄目か、では、いたし方ない」ということで、ついに数旬を経ずして、排斥され無役となってしまった。
 十代藩主牧野忠雅は、河井継之助の才をめでて登用したが、それは結局、継之助の排斥につながってしまう。ただ、藩庁は継之助に四、五年の経験が必要だと答申もしているから、実力を知ることになれば登用もありとしたのだろう。その後、継之助は門閥制度を廃止する改革案を提出しているから、双方の確執が深まり、継之助が孤立化してゆくことになる。

(稲川明雄)

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2018年11月5日 | カテゴリー : 稲川通信 | 投稿者 : kawai03

【稲川通信37】 寝食を忘れ李忠定公集を写す

王陽明が「天下の己れを信ずるを求めざるなり、自ら信ずるのみ、吾方に以て、自ら信ずるを求めて暇あらず、而して、人の己れを信ずるを求むに暇あらんや」と説いたというが、継之助は陽明学を学び、経世家を志すようになると、ますます強い克己心を発揮し出した。
それは、彼が嘉永六年(一八五三)六月にペリー来航に接してから、より強くなったと考えられる。残念ながら、継之助が佐久間象山・小林虎三郎・吉田松陰らとともに、浦賀沖のペリー艦隊を直接、見学に行ったという記録がない。象山塾生の一人であったという事実から、一行の中に含まれていたという憶測が伝わっているだけである。

ただ、この異国船騒ぎによって、継之助の運命が変わったことは確かである。彼は藩主牧野忠雅に建言をした。「その言、はなはだしく詭激(きげき)にわたれりといえども、この一事、はからずも忠雅の心を惹き、時局漸く困難ならんとする今日、以て用ふべきの器なり」と評価され、藩政関与の一歩を踏み出す。つまり牧野忠雅に、特命を帯び、評定役随役に任じられて、帰国することになる。

ときに経世家として一歩を踏み出した継之助は、陽明学により傾倒し、正義への確固たる信念をもやす。
『李忠定公集』全十二巻を筆写し、かつ歴代奏議類を勉学した継之助は、己れの運命をそこで悟る。長岡藩を改革するのは己れのみ、「小人にならず、大人になろう」と。

2018年5月19日 | カテゴリー : 稲川通信 | 投稿者 : kawai03

【稲川通信36】 久敬舎時代

久敬舎時代

久敬舎に鈴木虎太郎という青年がいた。継之助が再度の遊学で久敬舎に入塾した安政六年ころは十六歳であったというから、少年に近かったのだろう。
虎太郎は後年、禅に凝って刈谷無穏と名乗って、僧のような生涯を送り、明治三十二年、三重県津市で歿した。その無穏が継之助の三十三歳のころの面影を語っている。

わしの席の隣りに、眼のギロッとして三十歳前後の人がいた。どうも様子の変った人だと思って名を訊いたところ、越後の河井継之助だといった。学問にはほとんど興味がないようであった。というよりは、自己流に興味のある特別の学問に熱中している風にみうけた。

継之助は、この虎太郎に作詩を頼んだり、読書について一家言を呈している。そのたびに虎太郎は驚いたり、あきれたりしている。いわば常識に捉われない変人のように映ったらしい。
おみしゃん、面白いだけで本を読むなら、芝居か寄席にでも行くがよい、と奇妙なことを言われたこともあった。あるとき、「吉原細見」をみせて、芸娼妓の名のところに◎〇×と印があるところを説明してくれた。
「英雄の鉄腸を溶かすものをためしているのさ」と、こともなげに言う継之助を、豪傑とは、こういうのをいうのかなと思ったと述懐している。吉原の小稲のところへ通ったのは、どうも、このころのことらしい。

※写真はイメージです、久敬舎ではありません。

2018年3月5日 | カテゴリー : 稲川通信 | 投稿者 : kawai03

【稲川通信35】 江戸遊学

嘉永五年(一八五二)春。継之助は待望の江戸遊学に旅立つ。妻のすがには「なに、川をひとつ渡り、山をひとつ越えれば江戸さ」と言い、すたすたと旅立っていったという。
遊学の宿志は、もとより己れの立身である。己れの人生を、この遊学にかけていた気配が濃厚である。二十六歳の遅い旅立ちだったが、一緒に同行した若い友たちがいた。同藩士永井慶弥(のちの立花逸造)らである。この立花らが、のちに河井継之助の人間像や藩政改革の実際を証言することになる。

継之助らの遊学は、藩庁の許可を得たとはいえ、全くの私費での旅行、三国街道を(のぼ)るにも気概は横溢(おういつ)、気楽なものであったという。

街道の途中、景色の良いところのくると、立ち止まって放吟したり、旅宿で酒を飲んで酌婦とたわむれたりして、壮士が青雲の志を抱くような華やかさがあった。この反対に公費で遊学の途についた友の小林虎三郎などは、悲愴(ひそう)な覚悟で三国峠を越えたという。

継之助は生涯、三、四度、三国峠を越えている。三国峠は、越後・信濃・上野の国境にあることから名付けられた。越後から下れば、そこはまさに異郷。新天地となるか、魔境となるかの境目にあたっていた。二度目の遊学は冬期だったから、信濃路を通って碓氷峠を越えた。文久と慶応に継之助は三国峠を越え、帰郷しているが、そのたびに歴史の天命というものを背負って帰ってきている。

(稲川明雄)

 

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【稲川通信34】 妻すが

妻のすがは十六歳のとき、二十四歳の継之助のところに嫁いできた。嘉永三年(一八五〇)のことである。
すがは天保五年(一八三四)生まれであるから、継之助の七歳年下。長岡藩士椰野弥五左衛門の娘に生まれた。椰野家は世禄二百五十石(河井家の約二倍)で、代々、藩主の御用人を務める家柄である。すがの兄は嘉兵衛といい、継之助の良き理解者であり、継之助を支えた人物である。
嫁してきたころの継之助は尋常でなかった。写本に熱中して寝食を忘れたり、夜中に「呻吟語録」を朗々と謡うといったくらしをしていた。盆踊りの輪に入って長岡甚句を謡ったのも、このころであろう。
すがは、この奇妙な夫を不思議に思わなかったらしい。「お身しゃんは、この河井家の娘だと思うてくれ」という言葉を、夫のやさしさだと受け取って河井家でくらしていた。
すがのこのような人柄が、継之助を育てていった。
継之助とすがは仲睦まじかったとあるが、世間並みに派手な夫婦喧嘩もあったらしい。『北越名士伝』の「河井継之助」の項を執筆した松井広吉によれば、「夫人の髪を?んで引き摺り廻したことや、遊廓で乱暴したことなど」を記したが、「すべて故人のため、その非を諱むという筆法で抹殺した」とある。明治十八年(一八八五)六月の『北越名士伝』所収の河井継之助伝記は一番早い。

(稲川明雄)

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【稲川通信33】 継之助の読書好き

継之助の読書好きは、長岡城下でかなり著名だった。妹の牧野安子が後年、語るところによれば、「兄は毎々、書物を汚すようでは、駄目だと申していましたが、書物は非常に好きで、宅にいました時分には、夜など四角の行灯の三方を囲って、一方を明るくし、夜遅くまで勉強していました。二十歳前後のことと思いますが、他所から書物を借りて、藩の祈?寺の玉蔵院に、毎日籠って、すっかり写し取ったそうです。この書物は、いま森家にあります」と述懐している。森家とは森源三家。
その玉蔵院は長岡城に接した東北の一郭にあった真言宗寺院。いまは同寺と縁のあった長岡市柏町の千蔵院が管理する歴代住持の墓碑群を残し、跡形もない。伝説によれば、巨大な本堂を有し、寺格・規模とも城下第一の寺だった。寺の正面に並んだ侍屋敷を玉蔵院町と称した。寺跡のおおかたはJRの線路敷きの下となっている。
その玉蔵院は若い藩士たちに文武修練の名目で本堂などを開放していたらしい。また、河井継之助が兵制改革をした際にも、練兵場として使われている。
継之助は玉蔵院が貴重な書物を写し取っている。すなわち、嘉永二年(一八四九)からの筆写である「続近世業語抄」「柴野彦助上書」「明朝紀事本末抜書」などである。
現在、継之助筆者の呻吟語など、現存する筆写本は三本にすぎないが、河井継之助の人間形成を知るうえで、貴重な資料である。

(稲川明雄)

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【稲川通信32】 盆踊りを楽しむ

夏のある夜、長岡城下の辻々で、盆踊りがある。たいがい辻には老大樹があって、その周りを長岡甚句にあわせて踊る。音曲は甚句だが、三味線・笛・木樽の太鼓が中心で、たまに鐘をならす者もいた。
継之助は盆踊りが大のお気に入りで、若いころから変装して参加したという。妹の安子の着物を借りて女装したり、鳥追いの笠をかむり、着流しに脇差を差しはさんだ姿で出掛けたこともあったと伝えられる。
継之助は長岡甚句を歌わせると抜群だった。やや高音の澄んだ美声が朗々と響いたという。
この盆踊りに武士の参加は禁止されていた。盆踊りは領民の無礼講として、二百年以上にわたり、武家の参加を許さなかった。継之助の参加は、もちろん、役人(足軽)にみつかれば、それなりの処罰があった。そんな危険を冒しても、盆踊りに参加したかったのは、生来の性癖か、それとも庶民生活を知り、政治というものの眼を養おうとしたのかもしれない。
長岡藩領では、この盆踊りに必ず長岡甚句が歌われた。甚句は武家踊りともいわれたが、その歌詞は、領民の悲哀を歌ったものが多い。

お山の千本桜、花はさくなる実は一つ、九百九十九はソリャ無駄な花
だいらうだいらう角を出せだいらう、角を出さねば代官所へことわる
お前だか左近の土手で、背中ボンコにして豆の草取りやる

(稲川明雄)

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【稲川通信31】 桶宗の結成

三島億二郎の兄・伊丹政由が首領となった「桶宗」は、城下の若者組のようなものであったらしい。『北越名士伝』に桶宗(そこでは桶組となっている)をつぎのように紹介している。

君之ち、三間市之進・花輪馨之進・渡辺進の諸士と約し、桶組と名く。蓋し、箍桶 (けん)水を漏さざるの義に取ると云ふ。三士()と長岡の三進と称す。皆、卓抜の名あり。初め、此群に入る者三十五名、後百余名に至る。

 これによれば、河井継之助が三間・花輪・渡辺の三子と桶宗を結成したことになっている。
『三島億二郎傳』などには、小林虎三郎や川島億次郎・鵜殿団十郎など、幕末の長岡藩を背負う人材が集まったとあるから、若者の精神の陶治に一役買った集団教育であったものと思われる。もっとも野僕(やぼく)を好み、剛健、しかも勉学にいそしんだものといわれている。
『北越名士伝』では、河井継之助よりおよそ十歳くらい若い者たちが結成に尽力したことになっている。河井継之助は、のちに藩政を担当すると、この桶宗グループから登用し、改革の中心人物としたり、北越戊辰戦争では軍事掛や名隊長・使番・御金奉行などの要職に就かせていった。
 なお、この桶宗の顧問格には、藩儒山田到処(愛之助)がなっていた。首領であった伊丹政由は、その天分を発揮することなく、二十九歳で病歿し、名は世に出なかった。

(稲川明雄)

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【稲川通信30】 立志を誓う

何歳のころに、継之助が陽明学と出会ったかを知る術は、いまのところない。郷土史家の今泉鐸次郎らは、十七歳のころには陽明学を学んでいたとしている。

長岡の研究者剣持利夫氏は、継之助が幼いころ『王陽明先生出身靖乱録』を読んで感化をうけたとしている。己れの人生に王陽明を似せているところが面白い。

十七歳のときには陽明学を学んで、立志を誓明したという証拠は、二十九歳のときの自作の漢詩にある。

十七天に誓って補国に擬す、春秋二十九宿心(たお)る、千歳此の機得るべきこと(かた)し、世味知り来って長大息、英雄事を為す(あに)縁無からんや、出処唯(まさ)に自然に付すべし、(いにしえ)()り天人定数存す、好し酣睡を()って残年を送らん。

十七歳といえば元服の翌年である。そのまた前年十五歳のときには古義学を学び、崇徳館の質問生であったというから、元服を境に継之助の心境の変化があったにちがいない。

十七歳。天保十四年(一八四三)、この年、長岡藩は新潟上知という災難にみまわれる。水野忠邦(ただくに)の天保改革の一環として長岡藩のドル箱であった新潟湊が上知となった。港からあがる仲金(すあいきん)が二万両ともいわれた収入を一挙に失ってしまう。

少年・継之助にも、長岡藩の危機を悟ることができた。藩の柱石となることを、そこで誓い、鶏を割いて陽明を祭ったというのだろうか。

(稲川明雄)

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