【稲川通信27】 藩校崇徳館

長岡城への千手口御門から少し上った、つまり南へ下ったところに追廻橋があった。長岡城の外濠の役割をしていたという赤川をまたいでいた橋である。いまは柿川と名を変え、川幅も三分の一程度に減り、河原もなくなったが、昔は徒歩では渡れぬほどの川であった。その北詰めの橋脇に藩校崇徳館があった。
藩校は文化五年(一八〇八)、九代藩主牧野忠精の指導によって、創設された。藩学は伝統的に古義学が中心に据えられていた。
幕末、その藩学には朱子学が台頭するが、長岡藩風は古義学の影響が強かったのである。とくに藩政府の中枢に採用される藩士は、幕末藩校崇徳館出身のエリートが占めるようになってから、ますます藩校の地位が高くなっていった。
河井継之助は幼少のころは藩校に通っていなく、十歳をすぎたあたりから通い出した。はじめ、通例に古義学を修めたようである。もっとも、素読生として入り、毎日、声をあげて暗誦をさせられたものであるから、退屈なものであった。
長岡藩の場合も他藩と同様だったが、藩校へ通うと同時に、武士としての教養・修業を師範と称する有能者に習ったようである。藩校を引くと、それぞれの藩士の家塾に通った。継之助も馬術などを習う。その際、「馬に乗れさえすれば良いのだ」という見識を持ったことが、彼の才覚のはじまりであった。そんな継之助が師の高野松陰に、その家塾で陽明学を授けられたことと考えられる。この陽明学を学ぶことで農を尊び、商を重用する彼の改革の心が芽ばえる。

(稲川明雄)

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【稲川通信26】 祖父・代右衛門秋恒のこと

父の代右衛門秋紀は祖父の代の世禄百四十石を二十石減禄されて、家督を嗣いでいる。その減禄の理由は定かではないが、祖父代右衛門秋恒が減禄の要因をつくったようだ。
 祖父の略歴は、つぎのとおりである。

安永六年御番入。天明六年遺跡相続。寛政三年御納戸。同四年大坂詰め。同八年中間(ちゅうげん)頭。同十二年群奉行。文化三年蒲原水抜き一件、心配不行届につき御沙汰及ばされる。同四年新潟町奉行者頭格。同十一年者頭同格勘定頭。文政二年五月御慰御認 ?御画(雨龍画)之を下さる。同年九月大坂立帰り。同五年十二月家中困窮につき、御仁恵仰せ出されしに、取締方不行届、心得等閑につき御叱。同七年三月御役格式共御免。同年五月隠居。文政十三年閏三月二十八日病歿。

 河井家三代目秋恒は順調に官吏の道を歩むが、三潟干拓事業に配慮が足りなかったと口頭注意を受けた。しかし、有能であったらしく、群奉行・新潟町奉行・勘定頭に累進し、大坂出張(蔵屋敷の運営や大坂商人からの金子借用か)も体験した。
 ところが文政五年(一八二二)、何らかの会計上の失敗で責任をとらされている。これが致命的な欠陥となって勘定頭や者頭格にまで上り詰めた役職をやめさせられ、格式をとりあげられている。
 同時に隠居となり、代右衛門秋紀が家督を相続する。結局、祖父は文政十三年、失意のうちに没するが、その無念さを、孫の継之助秋義が嗣ぐことになる。

(稲川明雄)

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【稲川通信25】 父・代右衛門のこと

父は代右衛門秋紀という。長岡城下ではかなり名の知れた茶人で、刀の鑑定家でもあった。

禄高百二十石の河井家の当主。継之助の河井家は宝永四年(一七五四)のころ、河井忠右衛門の二男、代右衛門信堅の才覚によって分かれた分家。

父の代右衛門秋紀は有能な官吏でもあった。天保十二年(一八四一)には十代藩主牧野忠雅(ただまさ)が京都所司代に就くと、随行し、京都詰めとなった。このとき、筆頭家老稲垣平助の父平膳が京都で自裁している。帰藩後、武器頭・取次役・勘定頭などを歴任している。いずれも、実力が必要な役職である。

継之助の父が藩の官吏となって活躍していたころ、長岡藩創設以来、もっとも不運な時代に遭遇していた。それは九代藩主牧野忠精から十代藩主牧野忠雅に移行しようとしていたころで、長岡藩の存亡がかかっていた時代でもあった。つまり、先代の幕閣での公務負担による借財の累積、領内の自然災害の多発、そのうえに三方替え・新潟上知事件など、藩財政の破綻が重なっていた。また、先代が老中職をしたことにより、幕閣内での政争に巻き込まれていた。

父代右衛門は経理にたけており、藩財政の運営を担当していたから、その苦難の一端を背負うことになる。勘定頭としての体験などが、子の継之助の人間形成に大きな影響を与えたと考えられる。継之助の立志の背景に、父や祖父の存在があった。

(稲川明雄)

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【稲川通信24】 つぎのすけかつぐのすけか

河井継之助は、かわいつぎのすけと()む。最近、つぐのすけとルビをふる伝記がふえたが、それは明らかな誤りである。
 生誕地である長岡でさえ、一部の人たちがつぐのすけと称しているが、それは、以前から呼び(なら)わされた用語として使われていたものが、いつの間にか当たり前のようになってしまったのだ。
 昭和四十年代まで、「河井つぐのすけさんは正しくはつぎのすけと呼ぶのがよいようですよ」という会話が交わされていたように思う。ところが、いまはつぐのすけだとある。吉川弘文館の『国史大辞典』にも、「かわいつぐのすけ」という()みになってしまった。
だいたい、継ぐはつなぐという意味である。ところが、『漢語林』などによると、「つぎ」は「あとをひきうける者。あとつぎ・後継者」とある。河井家の家譜をみると、二代代右衛門秋高の幼名が用之助であるが、三代から五代に至るまで継之助の幼名が使われている。家の長男、つまり、あとつぎという意味で、つぎのすけと称した方が自然である。
 また、資料の中からも、つぎのすけと称していたことがうかがえる。戊辰戦争後、最初に刊行された野口団一郎の『戊辰北越戦争記』に「つぎのすけ」とルビがある。この戦争記は明治二十四年に刊行されている。明治三十一年刊の戸川残花の少年読本『河井継之助』(博文館刊)にも、そうルビがふってある。博文館は長岡出身の出版人大橋佐平の興した出版社だから、間違えるはずがないと考えられる。
 河井継之助の甥・根岸錬次郎が、北越新報記者や長岡の歌人遠山夕雲に正しい訓みをたずねている。「そりゃ、愛想もつきのすけだよ」という答えがある。
「そもそも、つぐのすけと称した」と主張しはじめた研究者が安藤英男さんである。昭和六十二年刊の『河井継之助の生涯』の凡例に、つぎのように記している。

なお、継之助の訓み方が「つぐ」か「つぎ」かで、しばしば問題になっているが、本人が仮名(かな)を振った文献がない以上、近親者がどう訓んでいたかに耳を傾けるべきであろう。継之助の実妹・牧野安子氏、継之助の甥・根岸錬次郎氏は「つぐのすけ」と呼んでおられた。

とある。牧野安子は昭和三年に、根岸錬次郎は昭和十九年に没している。おそらく安藤氏は、その近親者から呼び名を聞かれたのではないだろうか。いつとはなしに慣用としてのつぐのすけが使われていたのだと思う。
 遺族でいえば、河井継之助家を嗣いだその末裔にあたる小川寿満子さんが「継之助の呼び名が近ごろつぐの助とよく云われますが父(河井茂樹。森源三の二男・河井家養子)もつぎの助と申して居りましたし、父の弟森路九郎叔父が生きて居りましたので尋ねました処、何時も皆さんからツギサと呼ばれていたと云っていますから、継之助(つぎのすけ)が本当ですよ」と言っている。

(稲川明雄)

150520

【稲川通信23】 生誕地はどこか

文政年中の長岡城下図をみると、河井代右衛門の屋敷は長町の東南の端にある。その後の城下絵図にも河井継之助の屋敷地の位置は変わっていない。
従来、継之助は同心町から移ってきたという説があった。同心町は町同心の住む同心屋敷があったところである。何らかの事情で、河井家は同心町に逼塞させられていたと考えられてきたが、そういう事実は現在まで見いだせないのである。
この同心町から長町に移ってきたとする説は、河井継之助研究の第一人者安藤英男氏の主張を嚆矢(こうし)とするものだが、今一度、考証する必要が生じている。
本来、武士と同心の身分は隔世の感があった。たとえ、長岡藩が小藩といえども、騎馬士(大組)に属する河井家が同心屋敷に居候したとは考えにくい。この点について、従来、疑問を持ちつつも、同心町生誕説を採っていたことを訂正する次第である。なお、長町そのものを生誕地とする先学の資料もないことも確かである。

(稲川明雄)


150710

【稲川通信22】 出生時刻に二説あり

継之助の出生時刻には二説ある。つまり、文政十年(一八二七)一月一日の暁七ツ時と同日の正午という二説である。その二説の出どころは、いずれも郷土史家の今泉鐸次郎・省三の父子研究家だ。
父の今泉鐸次郎は畢生の書である『河井継之助傳』を著している。現在、河井継之助研究は、この書によっているといっても過言ではない。
『河井継之助傳』では、出生は暁七ツ時だ。ところが、その令息である今泉省三は、その著作『忘却の残塁』で「今泉木舌氏(父・鐸次郎)によれば、継之助の生まれたのは暁七ツ時・午前四時としているが、一説に午の刻、すなわち正午ごろともいわれている」と述べている。この出典は不明だが、郷土史家独特の取材の中での史実かもしれない。たった八時間の差であるが、この二説を考え合わせると、継之助に対する家族の期待というものが伝わってくる。

(稲川明雄)

161114

【稲川通信21】蒼龍窟の誕生

文政十年(一八二七)一月一日の朝七ツ刻に河井継之助は越後長岡藩(七万四余千石・藩主牧野氏)の城下町に生まれた。干支でいえば、寅の月・寅の日・寅の時刻に誕生したことになる。偶然の一致とはいえ、多少の疑問が残る。

長岡藩士の河井家にとって、継之助の誕生は大いに期待するものがあった。その継之助がみずから蒼龍窟と号するのは、艱難辛苦を体験している雌伏時代の二十八、九歳のころである。誕生のとき、祖父母も両親も継之助が虎のような人物になるよう期待していたのだろう。ところが、継之助が後年、龍にこだわったのは、何か理由があってのことだ。
号を単に蒼龍としただけなら、それは屋敷にあった二本の松樹を模したのかも知れない。また、九代牧野忠精の龍徳院公にあやかって、その若い龍としたのも考えられる。そういえば、忠精公の描く雨龍の図は諧謔性に富むものだ。
ところが正しくは蒼龍窟と称する。それには継之助が己れに課した人生観がこめられていると思われる。
継之助は若いころ、禅を学んだという。『碧巌録』は愛読書だったらしい。龍の喉元にある玉をとれば英雄になれる話がある。あらゆる困難にうちかって、龍の玉を奪い取ろうとする壮大な己れの人生を模していたのではないだろうか。ただ、彼の人生には龍とともにあらわれる瑞雲がたなびかなかったきらいがある。

(稲川明雄)

161107

【稲川通信20】長岡甚句を歌う継之助

大正八年五月発行の「改輯・長岡市案内」(大正社)に

「旧長岡藩の英傑河井継之助は最も甚句に妙を得、美音妙曲の聴えあり。
未だ老職執頭たらざし時、町屋の大通(現今草間病院前・表町三丁目)に於て、
夏の宵、老若男女混合、甚句を謳歌し始めしに、継之助は大刀を背後に押遣り、
義経袴の股裁を取り、扇面を口に当て、音律華朗たる音聲を振り絞り、
音頭の役を勤めし例ありと云ふ」

とある。
その甚句の歌詞も「だいろうだいろう(百姓々々/※原文ママ)つぬ(籾)だせ(可納)だいろう、つぬをださぬと、代かんどん(代官殿)にことわるぞ(可訴)」というものであった。
だいろうはカタツムリのことで、つのは角であったから歌詞の意味からとらえるならば、継之助はどんな気持ちで歌っていたのだろうか。

(稲川明雄)

150520

【稲川通信19】母 貞の述懐

母の貞は明治二十二年三月二十八日、八十五歳で没している。継之助が没してから二十二年近くも生きたことになる。

貞は勝気ながまん強い雪国の女性だった。生来、経才があったというが、その才能は子に引き継がれたのだろう。亡くなる半年前、郷土史家で新聞人の広井一が、貞に会っている。暗い一室に、凜として据っていたという。
その貞が一番つらい思いを語っている。それは戦時中、潜伏先の濁沢村阿弥陀寺で襲われて捕えられたことだった。住職の神田月泉の配慮も空しく、高田に護送されて半年間の禁固に会った。「唐丸籠に乗せられた思いは生涯忘れません」と語っている。妻のすがはその際、髪をおろしている。
その貞のところに、毎年、継之助の命日近づくと訪問する老人がいた。古志郡加津保村の元庄屋鈴木総之丞である。号を訥叟という。藩政時代、継之助に北組の割元を命ぜられ、郡政改革に一役を買った人物だ。当時、栖吉村の紛擾に困り果てた継之助は、あるとき仮病を使い、総之丞を病床に呼びよせた。そして息もたえだえに栖吉村の庄屋職就任を懇望する。総之丞はそれほどまで評価してくれると感激して、涙ながらに受け入れると「がばっと」継之助が起きて、喜んだというのである。その際、継之助は一番大切にしていた師の山田方谷の書を総之丞に渡している。継之助が戦争中、敗走の道を追求し、直接「北組割元職」の返上を申し出ている。律義な性格だった。
その総之丞に向って、母の貞が、
「世間様は、継之助がやったことを悪し様に申しまするが、本当にそうなのでしょうか」
と長岡弁でたずねたという。その際、総之丞は訥弁で、
「そうは申しても、いつかは継之助様の真意がわかるときがきましょう」
と答えたという。そして二人は遠く東の方を眺めて、無言の刻をすごしたとある。

(稲川明雄)

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【稲川通信18】継之助の屋敷跡

ほんの最近まで、河井継之助の遺族が建てた屋敷が残っていた。戊辰戦争前の河井屋敷は戦火で焼失してしまったから、再築したものである。

長町一丁目の入り口に継之助の屋敷があった。今はないが、小路の右角に二本の松があった。玄関から入ると客間があり、その奥に六畳と八畳間があり、またその奥に三畳間があって台所があった。この家は戊辰戦争後、継之助の父、代右衛門を母貞、そして妻のすがが潜やかに住んだ家であった。

北側に縁があり、広い庭園があった。それは河井家の昔の面影をとどめる唯一の庭であった。これは、今もその面影を失っていない。井戸の跡、灯籠、石畳、ちいさな樹木は、継之助の慈しみが今も残っているようである。

建物は近代的な建築に変わってしまったが、長町の小路は昔のままであるし、その両側には侍屋敷がつらなっていたことを想像させてくれる。

この地で継之助は生まれ育ったのである。河井邸の向いには、小林又兵衛の屋敷があった。文政十一年生れの虎三郎は、よく遊んだことであろう。

僧良寛がたずねてきたのも、長町の屋敷であった。父代右衛門は風雅を愛し、刀剣の鑑定に秀れた才能を持っていた。

号を小雲と称し、茶事を好んで聴松庵・虚白庵と称した。虚白としたところが面白い。

(稲川明雄)


150710