【稲川通信24】 つぎのすけかつぐのすけか

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河井継之助は、かわいつぎのすけと()む。最近、つぐのすけとルビをふる伝記がふえたが、それは明らかな誤りである。
 生誕地である長岡でさえ、一部の人たちがつぐのすけと称しているが、それは、以前から呼び(なら)わされた用語として使われていたものが、いつの間にか当たり前のようになってしまったのだ。
 昭和四十年代まで、「河井つぐのすけさんは正しくはつぎのすけと呼ぶのがよいようですよ」という会話が交わされていたように思う。ところが、いまはつぐのすけだとある。吉川弘文館の『国史大辞典』にも、「かわいつぐのすけ」という()みになってしまった。
だいたい、継ぐはつなぐという意味である。ところが、『漢語林』などによると、「つぎ」は「あとをひきうける者。あとつぎ・後継者」とある。河井家の家譜をみると、二代代右衛門秋高の幼名が用之助であるが、三代から五代に至るまで継之助の幼名が使われている。家の長男、つまり、あとつぎという意味で、つぎのすけと称した方が自然である。
 また、資料の中からも、つぎのすけと称していたことがうかがえる。戊辰戦争後、最初に刊行された野口団一郎の『戊辰北越戦争記』に「つぎのすけ」とルビがある。この戦争記は明治二十四年に刊行されている。明治三十一年刊の戸川残花の少年読本『河井継之助』(博文館刊)にも、そうルビがふってある。博文館は長岡出身の出版人大橋佐平の興した出版社だから、間違えるはずがないと考えられる。
 河井継之助の甥・根岸錬次郎が、北越新報記者や長岡の歌人遠山夕雲に正しい訓みをたずねている。「そりゃ、愛想もつきのすけだよ」という答えがある。
「そもそも、つぐのすけと称した」と主張しはじめた研究者が安藤英男さんである。昭和六十二年刊の『河井継之助の生涯』の凡例に、つぎのように記している。

なお、継之助の訓み方が「つぐ」か「つぎ」かで、しばしば問題になっているが、本人が仮名(かな)を振った文献がない以上、近親者がどう訓んでいたかに耳を傾けるべきであろう。継之助の実妹・牧野安子氏、継之助の甥・根岸錬次郎氏は「つぐのすけ」と呼んでおられた。

とある。牧野安子は昭和三年に、根岸錬次郎は昭和十九年に没している。おそらく安藤氏は、その近親者から呼び名を聞かれたのではないだろうか。いつとはなしに慣用としてのつぐのすけが使われていたのだと思う。
 遺族でいえば、河井継之助家を嗣いだその末裔にあたる小川寿満子さんが「継之助の呼び名が近ごろつぐの助とよく云われますが父(河井茂樹。森源三の二男・河井家養子)もつぎの助と申して居りましたし、父の弟森路九郎叔父が生きて居りましたので尋ねました処、何時も皆さんからツギサと呼ばれていたと云っていますから、継之助(つぎのすけ)が本当ですよ」と言っている。

(稲川明雄)

150520

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