【稲川通信25】 父・代右衛門のこと

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父は代右衛門秋紀という。長岡城下ではかなり名の知れた茶人で、刀の鑑定家でもあった。

禄高百二十石の河井家の当主。継之助の河井家は宝永四年(一七五四)のころ、河井忠右衛門の二男、代右衛門信堅の才覚によって分かれた分家。

父の代右衛門秋紀は有能な官吏でもあった。天保十二年(一八四一)には十代藩主牧野忠雅(ただまさ)が京都所司代に就くと、随行し、京都詰めとなった。このとき、筆頭家老稲垣平助の父平膳が京都で自裁している。帰藩後、武器頭・取次役・勘定頭などを歴任している。いずれも、実力が必要な役職である。

継之助の父が藩の官吏となって活躍していたころ、長岡藩創設以来、もっとも不運な時代に遭遇していた。それは九代藩主牧野忠精から十代藩主牧野忠雅に移行しようとしていたころで、長岡藩の存亡がかかっていた時代でもあった。つまり、先代の幕閣での公務負担による借財の累積、領内の自然災害の多発、そのうえに三方替え・新潟上知事件など、藩財政の破綻が重なっていた。また、先代が老中職をしたことにより、幕閣内での政争に巻き込まれていた。

父代右衛門は経理にたけており、藩財政の運営を担当していたから、その苦難の一端を背負うことになる。勘定頭としての体験などが、子の継之助の人間形成に大きな影響を与えたと考えられる。継之助の立志の背景に、父や祖父の存在があった。

(稲川明雄)

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