【稲川通信29】 師の高野松陰

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「野菜を育てる気持ちで、人を教育せよ」と佐藤一斎(いっさい)が述べている。人の天性を伸ばすには、その特質を知り、おおらかに、しかもやさしく育てなければならないというのだ。

その佐藤一斎の門下には俊英が集まった。山田方谷(ほうこく)・佐久間象山(しょうざん)など幕末の思想家を多数輩出する。その佐藤一斎の塾頭をしていた長岡藩士がいる。高野松陰(しょういん)である。名を正則といい、通称は虎太。松陰は号である。長岡藩士の小畔家に生まれたが、十五歳のとき、同藩士の高野七右衛門家に養子に入る。

「書を読み、目を過ぐれば、すなわち誦を成す」

といわれたほどの神童であった。

天保二年(一八三一)、長岡藩は三人の公費遊学者を初めて旅立たせるが、そのとき、山田愛之助・木村鈍叟とともに高野松陰も選ばれている。松陰は佐藤一斎の門下に入り、高足となった。同輩に山田方谷・佐久間象山らがいる。一斎は朱子学のほか陽明学にも造詣深かった。昼は昌平坂学問所で朱子を教え、夜は家塾で陽明を説くといわれた人物である。

高野松陰は長岡城下に帰り、藩校崇徳館の都講となったが、継之助に陽明学を教えた人物といわれている。

継之助の人生が変わったのは高野松陰にあったとある。その際、山田方谷・佐久間象山の高名を聞いたと考えられる。一方、高野松陰から朱子学を教えられた人物が小林虎三郎である。

(稲川明雄)

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