【稲川通信34】 妻すが

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妻のすがは十六歳のとき、二十四歳の継之助のところに嫁いできた。嘉永三年(一八五〇)のことである。
すがは天保五年(一八三四)生まれであるから、継之助の七歳年下。長岡藩士椰野弥五左衛門の娘に生まれた。椰野家は世禄二百五十石(河井家の約二倍)で、代々、藩主の御用人を務める家柄である。すがの兄は嘉兵衛といい、継之助の良き理解者であり、継之助を支えた人物である。
嫁してきたころの継之助は尋常でなかった。写本に熱中して寝食を忘れたり、夜中に「呻吟語録」を朗々と謡うといったくらしをしていた。盆踊りの輪に入って長岡甚句を謡ったのも、このころであろう。
すがは、この奇妙な夫を不思議に思わなかったらしい。「お身しゃんは、この河井家の娘だと思うてくれ」という言葉を、夫のやさしさだと受け取って河井家でくらしていた。
すがのこのような人柄が、継之助を育てていった。
継之助とすがは仲睦まじかったとあるが、世間並みに派手な夫婦喧嘩もあったらしい。『北越名士伝』の「河井継之助」の項を執筆した松井広吉によれば、「夫人の髪を?んで引き摺り廻したことや、遊廓で乱暴したことなど」を記したが、「すべて故人のため、その非を諱むという筆法で抹殺した」とある。明治十八年(一八八五)六月の『北越名士伝』所収の河井継之助伝記は一番早い。

161107

 

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