挨拶とコンセプト

館長挨拶

 作家・司馬遼太郎さんの作品に『峠』という傑作があります。1968年に新潮社から出版され、300万部発刊されたベストセラーです。なぜ司馬さんが、越後長岡藩の河井継之助(1827~1868)を、とりあげたのか、そこは深い理由があったはずです。
 現代に生きるということは、苦悩をどちらにとるか選択をしているようなものです。運命にさからって、別の道に進むことを決断しても、堂々と生きることはむずかしいでしょう。でも、自己を信じ、勇気をもって、事にあたった幕末の風雲児河井継之助の人生の処し方を、作家は描きたかったかもしれません。
 そうした河井継之助の生家跡に、河井継之助記念館は年中無休(但し、年末年始を除く)でオープンしています。

河井継之助記念館館長
稲川 明雄
2014年10月21日


コンセプト

 現代日本は、いままで日本人が持っていた義理・人情を忘れ、当面の私利だけを求めて右往左往している。こうした傾向は、やがて日本の政治経済の屋台骨を揺るがしかねない。義理とは人の道における正しい行いようである。そこに人情の惻隠の心がなければならない。うわべだけの改革を断行しようとしても、うまくいかないのは、そういった義理と人情を忘れているからだ。幕末の風雲児 河井継之助の生涯を学べば、日本の改革はできる。


河井継之助記念館の紹介

 幕末の越後に彗星の如くあらわれた風雲児河井継之助。その41年にわたる生涯は、まさに波瀾万丈の大活劇だった。
そもそも、越後の小藩の長岡藩に河井継之助という風雲児が誕生するには理由がある。

 幕末、幕政に参画した主君牧野氏は湯水のように藩庫の金貨を使い、たちまち藩財政はピンチになった。収入も天保14年に長岡藩領であった新潟港を取り上げられると激減した。嘉永2年には借財が23万両にものぼったのである。そこで、藩庁では能吏を登用し、税の負担を重くし機構改革や経費の節約をはかるのだが、はかばかしくなかった。藩士の俸給は半減し、城下町には沈滞ムードとなってしまう有様であった。

 そこに登場したのが、たかだか禄高120石の河井家の惣領息子の河井継之助である。10代藩主 牧野忠雅も、ままならぬ藩財政を建て直すには、この男しかないと考えたふしがある。しかし、当時の藩政は常識や仕来りがまかり通る時代。そういった閉塞感を破るには、風雲児の登場は格好の場面であった。彼は、ことごとく通例を破り、物事の本質をついた。何が大切か、何が可及的かを人の道理から実践したかが河井継之助の改革の第一歩であった。当館では開館の趣旨をつぎのように説明している。

 当館は河井継之助の人物像を紹介するために長岡市制100周年を記念して、設立されました。米百俵で知られるように、長岡は明治維新以来、多くの人材を世に送り出してきました。彼らの多くの胸中にあって、苦境を乗り越える力を与え続けてきたのが、河井継之助だといわれています。継之助は、「弱きを助け、強きをくじく」人情の人であり、因習や偏見にとらわれない自由の人でした。さまざまな改革を行って一人ひとりが、個性と能力を発揮する豊かな社会を実現しようとしました。「人間というものは、地下百尺の底の心(土の中に埋められてからの真の心)でなければ、何の役にも立たない」と、継之助は言いました。

 改革の第一歩は、為政者が「惻隠の精神を持つことだ」から始まります。惻隠とは憐れむ心を持つことだとあります。他者をいたわるこそが改革の第一歩となることを師の山田方谷から聞き、その実践につとめました。そして、多くの人々が内在している実力を発揮できる社会をつくりあげれば改革は成功すると確信しています。現代も、知識だけ豊富にあっても、その驥足をのばすことができない人たちが多くいます。そういった人たちが能力に応じた実行力をつければ良い社会ができると思います。そういった改革の実際を、当館においでくだされば学ぶことができます。
このエントリーをはてなブックマークに追加