史跡探訪レポート


大黒古戦場パーク

八丁沖古戦場パーク

日光社

普済寺

河井継之助の碑

悠久山招魂社

光福寺

慈眼寺

伊東道右衛門の碑

長興寺

西軍上陸の地

前島神社

栄涼寺

維新の暁鐘(西福寺)

榎峠古戦場パーク

司馬遼太郎『峠』の文学碑

大黒古戦場パーク

激戦地で散った藩士たちの勇敢さを称えて
  • 慶応4年の夏、このあたりは北越戊辰戦争最大の激戦地となり、奥羽越列藩同盟と新政府軍との間で、幾度も戦闘が交わされました。
  • 勇敢に戦って散っていった藩士たちを称えるため、昭和12年(1937年)9月に地元の人々によって石碑が建てられました。石碑正面の「戊辰戦蹟記念碑」の文字は、当時海軍中将だった山本五十六の書です。
    (参考文献:『長岡歴史辞典』、『越後長岡戊辰史跡めぐり』)
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八丁沖古戦場パーク

長岡城を奪還するため、全軍の力をひとつにする
  • 慶応4年(1868年)7月24日、長岡藩兵は、八町沖(八丁沖)を渡り、長岡城を奪還する作戦を決行します。継之助は、藩兵に、弾薬と切餅を配り激励し、読み聞かせた口上書には「御一同とも、必死をきわめて勝ちましょう。死ぬ気になっていたせば、生きることもでき(中略)もし死にたくない、危うい目にあいたくないという心があるとするなら、それこそ、生きることもできません」とありました。
    (参考文献:『河井継之助傳』、『にいがた歴史散歩 長岡』)
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日光社

八町沖作戦成功の功労者・鬼頭熊次郎の碑
  • 八町沖渡河戦は、現在でも高く評価されている巧妙な作戦のもとに成功しましたが、その時活躍したある藩士のことを忘れてはなりません。長岡藩32石鬼頭家の部屋住み鬼頭熊次郎、その人です。
  • 軍令を守り、発砲せずに死んだ彼の亡骸は、家族が発見した時にはすでに腐敗していましたが、足がО脚であることから判断されたそうです。家財を助けるため、身体にむち打って働いた労苦の証拠なのです。
    (参考文献:『にいがた歴史散歩 長岡』)
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普済寺

初代藩主とともに眠る、少年隊士たち
  • 北越戊辰戦争に参戦し、若くして散った少年隊士の在名碑が建っています。
    その中のひとりに牧野金太郎がいます。金太郎は河井継之助の妹・やすの子でした。17歳という若さで討死してしまった金太郎は、亡くなる日の朝、元気に出かけていったそうです。
  • 寺の石段を登りきった高台には、初代藩主・牧野忠成の墓があります。
    (参考文献:『河井継之助傳』)

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河井継之助の碑

継之助の想いよ、悠久に
  • 碑文は、かつて山田方谷のもとで親交を重ねた三島中洲が寄せたもので、題額は戊辰戦争時に西軍の参謀を務めた黒田清隆によるものです。
  • 中洲は継之助との出会いを述懐するとともに「戦死の知らせを受け、君の才能が十分発揮されなかったことを悲しんだ」とつづり、「君の志は、ただ領民を護ることにあって、一身の利害は問うところではない」と漢詩に詠んでいます。
    (参考文献:『河井継之助の生涯』)

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悠久山招魂社

戦争に散った兵士たちの魂を祀る
  • 蒼柴神社拝殿の裏手に建つ招魂社には、北越戊辰戦争で戦死した河井継之助・山本帯刀をはじめとした藩士309名、西南戦争で戦死した隊士18名の霊が厳かに祀られています。
  • 柏友会(長岡藩士族会)は、長岡城落城の5月19日前後の最も近い日曜日に、招魂社で招魂祭(戊辰戦争没者の慰霊祭)を執り行っています。
    (参考文献:『長岡歴史事典』
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光福寺

北越戊辰戦争の拠点・長岡藩本陣跡
  • 『温古の栞』によれば、明応年間(1492-1501)上杉家の重臣本荘氏の開基。
     長岡城が落城するまで藩の本陣として使われた寺であり、小千谷談判決裂後「事これに至れば戦の外に策なし」と諸士に宣言した地でもあります。
  • 春になると、境内のしだれ桜が優美に咲き誇り、感慨深い印象が残ります。
    (参考文献:『河井継之助傳』、『長岡歴史事典』)

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慈眼寺

小千谷談判と明治維新、その真実は・・・
  • 慶応4年(1868)5月2日。小千谷の古刹・慈眼寺での談判が、長岡藩と継之助、そして北越戊辰戦争の運命を左右することになります。
  • 継之助は嘆願書を差し出して、その趣旨を説こうとしましたが、対する岩村精一郎は耳を貸そうとしませんでした。この嘆願書にこそ、継之助の「真の願い」がこめられていたのです。『河井継之助傳』には、その全文が掲載されています。
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伊東道右衛門の碑

最後まで武士として生きた、老兵の勇敢さを称えて
  • 槍術の達人・伊東道右衛門は、長岡が落城した5月19日、城岡の堤で壮絶な死を遂げました。62歳でした。
  • 落城の日、退却する長岡勢を後目に独り残り、得意な槍で勇敢に応戦しました。新政府軍二士を倒し「吾こそは武士なり」と叫んで討ち死にしたといわれています。戦死の地、城岡の福島江のほとりに彼の勇士をたたえる碑が建立されました。
    (参考文献:『にいがた歴史散歩 長岡』、『長岡歴史事典』)
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長興寺

名将・山本帯刀が眠る
  • 北越戊辰戦争では、大隊長として最後まで戦い抜いた山本帯刀の墓があります。帯刀は、長岡落城後、八十里越を守るために戦い続けました。
  • 慶応4年(1868年)9月、帯刀は飯寺の戦いで新政府軍に捕まり、降伏勧告を拒否し、斬首されます。取調べの際は実に立派な態度で、長岡藩が戦いを行った理由や薩長諸藩のひどいやり方などをはっきり述べたそうです。享年24歳。あまりにも若すぎる死でした。
    (参考文献:『ふるさと長岡の人びと』)
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西軍上陸の地

長岡城落城、西軍による奇襲
  • 慶応4年(1868)5月19日、長州奇兵隊は濃霧にまぎれ信濃川を渡河し、寺島村(現:中島町付近)に上陸し、放火しつつ城下に進撃。長岡藩兵はこの奇襲を防ぎきれずに敗走し、藩主牧野忠訓は城に火を放ち、会津領に落ちのびます。城下においては多くの民衆が逃げまどい、栃尾郷へ向います。
  • ここには、戦死者の墓と慰霊塔が建立されています。
    (参考文献:『長岡歴史事典』)
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前島神社

開戦決意―億二郎と継之助の厚い友情
  • 小千谷談判決裂後の翌朝一番、継之助は前島村を守備していた川島億次郎を訪れ、恭順を求める億次郎と激しい口論になります。「然らば我が元を斬り、三萬両を添えて西軍の本営に差し出すべし」と言う継之助の言葉に打たれた億次郎は「吾輩また足下と死生を共にせむのみ」と応じたのです。
     神社の境内には開戦決意の地記念碑が建立されています。
    (参考文献:『河井継之助傳』)
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栄涼寺

河井継之助が静かに眠る
  • 永禄年間(1555-69)三河国(愛知県)宝飯郡牛久保城主牧野成定の開基。元和4年(1618)越後長岡遺封に随従。
     河井継之助、三島億二郎らの墓所となっているほか、北越戊辰戦争の慰霊碑なども建立 されています。また、藩主牧野氏の墓所でもあり、戊辰戦争時の長岡藩主牧野忠訓・つね姫の墓が、寄り添うように建てられています。
    (参考文献:『長岡歴史事典』)
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維新の暁鐘(西福寺)

西軍の奇襲を知らせた城下最古の鐘
  • 慶応4年(1868)5月19日、西軍は信濃川左岸から奇襲するという作戦に出ます。この時、寺町(現:渡里町)西福寺の梵鐘が寺侍によって激しく打ち鳴らされ、敵の襲来を告げたのです。
     『維新の暁鐘』と名づけられたこの梵鐘は、明和3年(1766年)長岡の鋳物師・田中多左衛門尉重定が鋳造した、長岡最古の鐘であると言われています。

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榎峠古戦場パーク

接戦のたけなわ聞こえる
  • 榎峠、朝日山などの要地を思いのままに占領していた西軍から峠を奪回するため、継之助は作戦を立てます。
     慶応4年(1868)5月10日、柏崎方面から小千谷へ向かう途中、山県有朋と時山直八が、榎峠の方角から聞いた激烈な銃声は、まぎれもなく接戦のたけなわだったのです。長岡藩兵の猛攻撃により、峠を守備していた西軍の兵は、11日に総退却します。この後、激戦は朝日山へと移っていきます。 
    (参考文献:『河井継之助の生涯』)
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司馬遼太郎『峠』の文学碑

作家・司馬遼太郎の思いを刻む
  • 「武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。」(碑文一部抜粋)
     全国の人が河井継之助を知るきっかけとなったのが、作家・司馬遼太郎著の長編小説『峠』。この碑文には、継之助に対する司馬さんの思いが、切々と刻み込まれています。
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