有料入館者112,000人達成!

陽射しも良くなり、春の訪れをを感じます。

さて、記念館では今月13日に有料来館者112,000人目を達成しました!

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112,000人目の来館者は埼玉県からお越しの吉岡重典さん。

お仕事で与板に来られ、新幹線の出発まで時間があったので山本五十六記念館と併せて見学に来られたそうです。
「新潟市はよく来ますが、長岡市は初めて」とのことです。

とても喜んでいただけました。

暖かくなるにつれて、来館される方が多くなり、職員一同とてもうれしく感じています。
皆さま、長岡にお立ち寄りの際は是非ご来館ください。

【稲川通信30】 立志を誓う

何歳のころに、継之助が陽明学と出会ったかを知る術は、いまのところない。郷土史家の今泉鐸次郎らは、十七歳のころには陽明学を学んでいたとしている。

長岡の研究者剣持利夫氏は、継之助が幼いころ『王陽明先生出身靖乱録』を読んで感化をうけたとしている。己れの人生に王陽明を似せているところが面白い。

十七歳のときには陽明学を学んで、立志を誓明したという証拠は、二十九歳のときの自作の漢詩にある。

十七天に誓って補国に擬す、春秋二十九宿心(たお)る、千歳此の機得るべきこと(かた)し、世味知り来って長大息、英雄事を為す(あに)縁無からんや、出処唯(まさ)に自然に付すべし、(いにしえ)()り天人定数存す、好し酣睡を()って残年を送らん。

十七歳といえば元服の翌年である。そのまた前年十五歳のときには古義学を学び、崇徳館の質問生であったというから、元服を境に継之助の心境の変化があったにちがいない。

十七歳。天保十四年(一八四三)、この年、長岡藩は新潟上知という災難にみまわれる。水野忠邦(ただくに)の天保改革の一環として長岡藩のドル箱であった新潟湊が上知となった。港からあがる仲金(すあいきん)が二万両ともいわれた収入を一挙に失ってしまう。

少年・継之助にも、長岡藩の危機を悟ることができた。藩の柱石となることを、そこで誓い、鶏を割いて陽明を祭ったというのだろうか。

(稲川明雄)

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第10回 越後長岡ひなものがたり【2/16~3/8開催】

まだまだ寒い日が続いています。皆さん体調に気をつけてお過ごしくださいね。

さて、長岡市では昨年同様、市内46カ所が会場となる第10回越後長岡ひなものがたりが今月16日より開催されております。

当館では与板藩主より拝領したといわれているひな人形を展示しており、おひな様のみを観覧しに来られた方は入館無料となっております。

みなさま、是非ご来館ください!
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【稲川通信29】 師の高野松陰

「野菜を育てる気持ちで、人を教育せよ」と佐藤一斎(いっさい)が述べている。人の天性を伸ばすには、その特質を知り、おおらかに、しかもやさしく育てなければならないというのだ。

その佐藤一斎の門下には俊英が集まった。山田方谷(ほうこく)・佐久間象山(しょうざん)など幕末の思想家を多数輩出する。その佐藤一斎の塾頭をしていた長岡藩士がいる。高野松陰(しょういん)である。名を正則といい、通称は虎太。松陰は号である。長岡藩士の小畔家に生まれたが、十五歳のとき、同藩士の高野七右衛門家に養子に入る。

「書を読み、目を過ぐれば、すなわち誦を成す」

といわれたほどの神童であった。

天保二年(一八三一)、長岡藩は三人の公費遊学者を初めて旅立たせるが、そのとき、山田愛之助・木村鈍叟とともに高野松陰も選ばれている。松陰は佐藤一斎の門下に入り、高足となった。同輩に山田方谷・佐久間象山らがいる。一斎は朱子学のほか陽明学にも造詣深かった。昼は昌平坂学問所で朱子を教え、夜は家塾で陽明を説くといわれた人物である。

高野松陰は長岡城下に帰り、藩校崇徳館の都講となったが、継之助に陽明学を教えた人物といわれている。

継之助の人生が変わったのは高野松陰にあったとある。その際、山田方谷・佐久間象山の高名を聞いたと考えられる。一方、高野松陰から朱子学を教えられた人物が小林虎三郎である。

(稲川明雄)

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【募集終了】河井継之助記念館 開館10周年記念講演会について

平成29年3月18日(土)、河井継之助記念館開館10周年記念講演会を開催いたします。

今回は歴史小説家で各社新聞にて河井継之助が主人公の「龍が哭く」を連載されていた作家、秋山 香乃さんを講師にお迎えし、演題『河井継之助、深まる謎~「龍が哭く」執筆秘話~』をご講演いただきます。

講演会ポスター

↑ ポスター拡大

◆講 師 秋山 香乃(歴史小説家)

◎プロフィール

福岡県北九州市門司区生まれ。日本史に熱中し、高校入学の頃より小説を書きはじめる。活水女子短期大学で司馬遼太郎を研究。卒業後、歴史サークルを主宰。
2002年『歳三往きてまた』でデビュー。
気鋭の女流小説家として精力的に歴史・時代小説を発表している。
著書に『伊庭八郎 凍土に奔る』、『天狗照る』、『相場師・本間宗久』、『獅子の棲む国』、『密偵』など

◆演 題 『河井継之助、深まる謎~「龍が哭く」執筆秘話~』

◆日 時 平成29年3月18日(土)午後1時30分開場、午後2時開演(午後3時30分終了予定)

◆会 場 長岡グランドホテル 悠久の間(長岡市東坂之上町1丁目2−1)

◆定 員 300名(先着)

◆お申し込みについて

はがきに郵便番号、住所、氏名、電話番号、希望人数(1枚につき4人まで)を記入してご応募ください。

宛先は『〒940-0062  長岡市大手通2-6 長岡市観光企画課』まで

応募締め切り:3月3日(金)必着

※抽選結果は3月8日(水)頃発送の整理券にてかえさせていただきます。

詳しい応募要項・はがきの記入例についてはこちらをご覧ください。

募集は終了しました。

◆注意事項

・お申し込みは先着順ではありませんので、順番は一切関係ございません。
・お電話等でのお申込み・当落結果のお問い合わせは、一切お受けできません。

 ◆お問い合わせ先

長岡市観光企画課

0258-39-2344

 

【稲川通信28】 幕末の藩主牧野氏

継之助の人生に大きな影響を与えたのは、何といっても長岡藩主牧野氏の存在が大きい。出生時は九代牧野忠精。幕府老中職などを歴任し、文化大名といわれた人物だ。雨龍の絵を得意とし、諧謔性に富んだ人生観を、藩政にとりこんだ藩主だった。その一方、三潟干拓など思い切った新田開発施策を行っている。彼は龍にこだわっていたから、継之助のその号、蒼龍窟にも影響していると考えられる。父小雲から、九代藩主の英傑ぶりを聞き、臣僚たる我が身の立身を、蒼龍にたとえたものかもしれない。

十代藩主牧野忠雅は、その忠精の四男。襲風時は、ときの老中水野忠邦に、領地の三方替えを迫られたり、新潟上知を命ぜられたりしたが、老中職となってからは、備後福山藩主阿部正弘とともに、ペリー来航時に揺れる国事に奔走した。とくに海防掛老中として、水戸の徳川斉昭(なりあき)対策に腐心し、阿部とともに、とにかく外国との和親条約の締結まで持ち込んでいる。

このような藩主の活躍が、若い藩士の発憤につながったことはいなめない。幕末・明治期に有用な人材が輩出する原因となった。継之助も、その一人であり、直接、遊学中に建言をあげて、評定役随役に登用されている。忠雅の画像が伝わっているが、鋭い慧眼と忍耐強さが偲ばれる。その慧眼があったからこそ、一介の壮士・河井継之助の登場が可能になったといえる。

また、十一代藩主牧野忠恭は、逼迫する藩財政の将来を憂い、安政の改革、慶応の改革を断行させている。有用な藩士を登用し、思い切った構造改革をしてゆくことこそ、長岡藩を救う道だと悟り、継之助を登用した。

(稲川明雄)

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【稲川通信27】 藩校崇徳館

長岡城への千手口御門から少し上った、つまり南へ下ったところに追廻橋があった。長岡城の外濠の役割をしていたという赤川をまたいでいた橋である。いまは柿川と名を変え、川幅も三分の一程度に減り、河原もなくなったが、昔は徒歩では渡れぬほどの川であった。その北詰めの橋脇に藩校崇徳館があった。
藩校は文化五年(一八〇八)、九代藩主牧野忠精の指導によって、創設された。藩学は伝統的に古義学が中心に据えられていた。
幕末、その藩学には朱子学が台頭するが、長岡藩風は古義学の影響が強かったのである。とくに藩政府の中枢に採用される藩士は、幕末藩校崇徳館出身のエリートが占めるようになってから、ますます藩校の地位が高くなっていった。
河井継之助は幼少のころは藩校に通っていなく、十歳をすぎたあたりから通い出した。はじめ、通例に古義学を修めたようである。もっとも、素読生として入り、毎日、声をあげて暗誦をさせられたものであるから、退屈なものであった。
長岡藩の場合も他藩と同様だったが、藩校へ通うと同時に、武士としての教養・修業を師範と称する有能者に習ったようである。藩校を引くと、それぞれの藩士の家塾に通った。継之助も馬術などを習う。その際、「馬に乗れさえすれば良いのだ」という見識を持ったことが、彼の才覚のはじまりであった。そんな継之助が師の高野松陰に、その家塾で陽明学を授けられたことと考えられる。この陽明学を学ぶことで農を尊び、商を重用する彼の改革の心が芽ばえる。

(稲川明雄)

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年末年始の休館日【12/28~1/4】

※河井継之助記念館 年末年始開館について※
12月27日(火)まで開館しています。
12月28日(水)~翌年1月4日(水)まで、休館とさせていただきます。
1月5日(木)より、通常通り開館します。

 

来年もよろしくお願いいたします。

【稲川通信26】 祖父・代右衛門秋恒のこと

父の代右衛門秋紀は祖父の代の世禄百四十石を二十石減禄されて、家督を嗣いでいる。その減禄の理由は定かではないが、祖父代右衛門秋恒が減禄の要因をつくったようだ。
 祖父の略歴は、つぎのとおりである。

安永六年御番入。天明六年遺跡相続。寛政三年御納戸。同四年大坂詰め。同八年中間(ちゅうげん)頭。同十二年群奉行。文化三年蒲原水抜き一件、心配不行届につき御沙汰及ばされる。同四年新潟町奉行者頭格。同十一年者頭同格勘定頭。文政二年五月御慰御認 ?御画(雨龍画)之を下さる。同年九月大坂立帰り。同五年十二月家中困窮につき、御仁恵仰せ出されしに、取締方不行届、心得等閑につき御叱。同七年三月御役格式共御免。同年五月隠居。文政十三年閏三月二十八日病歿。

 河井家三代目秋恒は順調に官吏の道を歩むが、三潟干拓事業に配慮が足りなかったと口頭注意を受けた。しかし、有能であったらしく、群奉行・新潟町奉行・勘定頭に累進し、大坂出張(蔵屋敷の運営や大坂商人からの金子借用か)も体験した。
 ところが文政五年(一八二二)、何らかの会計上の失敗で責任をとらされている。これが致命的な欠陥となって勘定頭や者頭格にまで上り詰めた役職をやめさせられ、格式をとりあげられている。
 同時に隠居となり、代右衛門秋紀が家督を相続する。結局、祖父は文政十三年、失意のうちに没するが、その無念さを、孫の継之助秋義が嗣ぐことになる。

(稲川明雄)

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継之助に関する番組のお知らせ

最近は暖かい日が多く、長岡はまだ雪が積もりません。

皆さん、寒暖の差で体調を崩さないように気をつけてくださいね。

 

さて、継之助に関する番組が放送されるとのことで、お知らせさせて頂きます。

林修の今でしょ!講座

日時:12月27日(火) 19時~

チャンネル:テレビ朝日系列

普段は講師として教える立場にある人気講師・林修先生が生徒となって、その道の専門家から講義を受けるテレビ朝日系列の人気番組「林修の今でしょ!講座」。

 
今回、「大河ドラマのモデルにしたい偉人」をテーマに、番組内で林先生が自身の冠番組の最終回で取り上げる程、大ファンである河井継之助を紹介します。

 

林修の「峠」王は君だ!

日時:12月30日(金) 15時47分~

チャンネル:UX新潟テレビ21

北越戊辰戦争ゆかりの地をバスで巡りながらクイズに答え勝ち抜いていく、第一回「峠」王選手権の模様が司馬遼太郎没後20年スペシャル番組として放送されます!

長岡城跡のアオーレ長岡から始まり、御山の郷土資料館で決戦を迎えた第一回「峠」王選手権。

初代「峠王」の称号を手にするのは果して誰か!?

当日に参加出来なかった方も、「峠」ファンの方も必見です!

詳しくはUXホームページをご覧ください!